【読書感想】天才を殺す凡人【天才ってどんなこと?】
自分には才能がない、からこそ。
僕は、「自分には才能やセンスは無い」と確信しつつも、比較的ロジカルな説明が出来てしまうタイプであるために、デザイナーやアート寄りの方と話す時に、つい「言い負かしてしまう」ことが多かった。なんとなく「それは良くない」とわかっていたけど、ついつい・・・という時に出会ったのが、今回の本です。
天才=創造/秀才=再現/凡人=共感
秀才タイプは「説明能力の高さ」で天才を言い負かせることができる。凡人は「数の暴力」で天才を殺すことができる。「だから社会の中で天才タイプの人は生き抜くのが大変だし、天才を殺してしまう社会のせいでイノベーションが起きづらい」・・・的な本なのかな?と思いながら読んでいました。
基本的なストーリーラインはそれであっていると思うのですが、途中から「天才とは何か」という定義が二重にあるのでは、と考えるようになりました。
つまり「天才=一握りの創造的な人」だけではなく、「天才=自分の中の創造性」という意味。
自分の中の「秀才=社会構造的な正解や常識を実行できる能力」や「凡人=その他大勢や社会の流れにあわせようとする能力」が、自分の中の天才性=創造性を殺してはいないだろうか?と訴えてくる本だったと思います。
「自分の創造性を大切にする」は意外と難しい
学校教育も社会人生活も、基本的には規律正しく、全員が共感できる正解に突き進むことが求められることが多く、「秀才や凡人であることが当たり前」と思って生きている人が多い気がします。
そして、「自分の中の天才=創造性」を発揮すること、そもそも発見することは長く生きている中でどんどん難しくなってきているのではないか?と、この本を読んでいてハッとしました。
この一年くらい、「創造性を培おう」みたいなコンセプトでデッサンなどをするワークショップのスタッフをやっているのですが、そのスタッフ間の打ち合わせにおいて、「自分の意見を言う」人はいません。「ロジカルに分析すると、こういう結論になるのでは」みたいな話はあっても「わたしはこうしたい!」みたいな言葉は一度も聞いたことがないんですね。
「創造性とは、クリエイティブとは何か」「才能とは何か」も定義の難しい問題だとは思いますが、少なくとも「こうしたい」の熱量が0なものは、どんなにロジック的に正しくても、何かを突き動かす創造性はないのではないかな、と思います。
みんな、「良い子」として社会を生きているうちに「自分の考え」と「社会的にこう考えるべき」との区別がつかなくなっていくのではないか。そんなことも考えさせられます。
僕の創造性を殺しているのは、僕。
社会的、経済的に成功するとか、お金持ちになるとか、「今の社会システムの中でちゃんと生きていける」のは秀才や凡人の僕のおかげなんだと思う。
一方で、成功するかはわからないけど、より人生を楽しく豊かにしてくれる可能性=「僕の中の天才」は、気をつけてあげないと「僕の中の秀才・凡人」に殺されてしまうから、意識して大切に育ててあげないとなーと感じました。
この『天才を殺す凡人』は、「すべての人の可能性をあきらめない」というスタンスで書かれた、天才にも凡人にもとても優しい、勇気づけられる本でした。