【読書感想】世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
「お前の言っていることは正しい。しかし面白くない」
これはぼくが言われた、というか本屋に置いてあった雑誌の表紙に語り掛けられた言葉です。この雑誌、なにだったか忘れてしまったし、内容も特に覚えていないのですが、表紙に書いてあったこの一文だけがずっと頭にあります。
ぼくはデザインの仕事をしていて、デザインやその企画全体像についてプレゼンをすることも多いのですが、プレゼンすると結構「おぉ〜なるほど〜」みたいな反応をいただくこともあります。ただ、その「なるほど〜」とその後の成果物そのものの感動値みたいなものって、あんまりリンクしていないな、と思うようになりました。
平たくいうと口が達者でデザインセンスがあんまり無いのだと思います。
そんな悩みがあった頃に、偶然本屋さんでこの表紙の文言を見かけたものだからすごく衝撃的でした。まさに「本に語りかけ」られていたかのよう。
今回読書感想するこの本は、特に「センスはこうやって磨けば磨かれるよ!」的な話ではないですが、センスやらクリエイティブやらアイデアマンやら、あらゆる生産活動や生き方に共通して必要そうな「美意識=自分の判断基準」についてのお話でした。
VUCAの時代だからこそ、自分の在り方が大切
VUCA(不安定で不確実で複雑で曖昧)な現代においては、「こうやって生きていけば間違いないよ!」と言える成功のモデルケースは作りづらい、というのは昨今よく言われていることだと思います。
例えば「学校で真面目にお勉強して、良い点数とって、良い大学入って、良い企業に入って・・・」みたいな全員それに倣っておけばまぁ安心、みたいなことが少なくなってきている、ということです。
それは社会システム的にそうなってきている、という面もあると思いますが、人々の価値観が「自分なりの幸せを実現したい」という、一概に定義づけられない方向にむかってきているから、というのもあると思います。
それでも、人は「こうしたらあなたらしく幸せになれるよ」を教えてもらいたい。なにを標として生きたら良いのか?
その方法論として「美意識を持つ、強固にしていく」というのがあるみたいです。(ノウハウ本じゃないですけどね、念のため)
ぼくがこの本を読んで一番衝撃的だったというか、心に響いたのは、著者の山口周さんの文章そのものではなくて、本の中で引用されていた小林秀雄さんの言葉でした。
道端の美しいスミレを見つけて「美しいスミレだな」と思った途端、もう目の前のスミレは見えておらず、パターンとしてのスミレを認識している。
人は、多くのことを判断するために、大切なことを判断するために、大半のことをパターン認識してしまったり見ないようにしてしまったりします。
それは悪いことではないけれど、それによって「ものごとを見る」という精度が非常に低くなってしまう。それは自分自身の感性を育み、美意識を確立する上ではマイナスに働くことも多いのではないでしょうか。
何より、自分の見え方がパターン的(見る力が弱くて情報量が乏しい)ということは、自分の人生が乏しい、というのとほぼ同義だなと思います。そんなのは嫌ですよね。
自分の人生は、自分なりに豊かで幸せであってほしいもの。パターン化しないでものごとを見ることを少しずつでも体得していきたい。
どうやるのか?ですが、「言語的なものに支配されすぎるとパターン化にしばられやすくなる」のであれば、非言語な世界に浸ってみるのが良かろう、というところで、一般的にも想像しやすい「美=アートとか」の話に移っていきます。
「絵をたくさん見たら美意識が磨かれるよ!」みたいな単純なお話ではなく、ぼくは「虹を7色ではなく虹色として情報処理することに慣れていく」工程なのかなと解釈しました。
テキストとビジュアルの解像度の違い
美しいと感じられる時、それはすでに何らかの理にかなっている
これはぼくも個人的に、感覚的に、ずっと思っていたことでした。そもそも何のために美醜を判断する能力が人間にはあるのだろう?と考えると、突き詰めると「生物としての自分にプラスかマイナスかを見た目から判断している」ということだろうと思います。
言語の方がはるかに明確に「一つのこと」を指し示してくれてわかりやすく、多くの人間が一緒に活動するのに便利だから、「言語的に説明・解決できるかどうか」ばかりが注目され、評価されているように感じます。
でも、「明確にする」というのは「それ以外の可能性を全て排除する」ということでもあるかなと思います。
「虹は七色」と言った瞬間から、無限の広がりのある色彩は7つに分かれて見えるし、「赤」「橙」「黄」と名称があるから、本当は少しずつ違う色も全部「おんなじもの」として捉えられてしまう。
たぶん人間の脳力的にも「すべての可能性を常に考える」のは大変だから、言語で無限を有限に変えて整理するのは必要なのだと思います。
一方で科学的な分析や技術の発達により、多くのことをだいぶ細かく分析できるようになってきた結果、「みんなが同じ正解に行き着く」→「その正解にみんなが影響を受けて正解がどんどん変わっていってしまう」→「だから正解を見つけてから動き出す、というやり方が難しくなってきている」のだと思います。
発達しすぎたせいで逆に正解が出せない・・・というか、「正解っていう考え方がもう違くない?」というフェーズに人類が移ってきたのかもしれない。
おそらく、生物・人間にとって「正解か不正解か」は「死んじゃうかどうか」だったはず。そういう意味で、限りなく「まじで死んじゃうような事態にはなりにくい世の中になってきた」からこそ、正解を定義できなくなってきたのかなと。
論理的な正解とは、発行されるガイドブックや地図のようなもの。正確に「すでにわかっている正解」に連れて行ってくれるけど、発行までに時間がかかるし、つねに先客がいる。
本のタイトルにもある「美意識」は北を指さないコンパスのようなもの。どこを指すかは自分の積み重ねの内容によって変わるし、どれくらい進めば良いかも教えてはくれないけど、とりあえず動き出せる。そして「自分の内側」から滲み出た方角を指し示すので、自分の正解にはなりやすい。
そんなざっくりした感じの解釈で読了しました。